MOOSIC LAB 2018と左様なら展での
映画『左様なら』年内の上映を無事に終える事が出来ました。
様々な形でこの作品に携わって下さった皆様、本当にありがとうございました。
作品をやっとお披露目できた事によってご意見やご感想を頂ける機会も増えて参りました。
Twitter等のご感想もエゴサーチして拝読させて頂いております。
ひとつひとつがとても嬉しいです。
作品の感じ方は受け取って下さる方それぞれの自由だと思っていますし
作品自体から汲み取れない事は作り手の言い訳になってしまうのではという懸念から
映画の外側で自分の解釈や思いをあまり多く伝えるべきではないなと
これまでは思っていたのですが
『左様なら』について、自分の想いをどこかに残しておきたいなと思い立って
衝動でブログを書いてみてます。
くどくどと、何故かトピックごとに書き綴ってます。
なのでもし『左様なら』を既にご覧頂いた方で
「もう自分なりに咀嚼したので今から何を聞いても大丈夫です」ってな感じでしたら
電車移動中などの暇つぶしにでも読んで頂けましたら幸いです。
※ネタバレ含みます。
− 誰かがいなくなるという事について
例えば著名な方が亡くなった時、
SNSでおびただしい数の悲しみの声が上がっても
何分も経たない内に全然関係のない事柄を発信できますし
何日も経たない内に世間の関心は別の話題に移り変わっていきます。
別にそれ自体が悪いという事ではなくて、そういうものだと。
数年前、ある知り合いの方が亡くなりました。
その時にTwitterで周囲の人たちが「悲しい」とこぞって呟いていました。
ただ冷たい言い方かもしれませんが私からすると
「みんなその人の事そんなに好きだったっけ?」と感じるような間柄で
その過剰反応のようなものにただ漠然と、違和感を覚えました。
それから何年かが経ち、友人が亡くなりました。
私は悲しくて、ボロボロ泣きましたが
親友と呼ぶほどには近しくなかったその子の死を
自分は果たしてどれくらい悼んでいるのだろうと
他者の死を自分のドラマにしているのではないかと。
そんな事を考えてしまった時に、自分の感情が分からなくなりました。
そういった自問自答に対して私の中で見つかった気持ちの落とし所が
「それでも悲しいもんは悲しい」という答えでした。
今でも時々、日常のふとした出来事の中でその友人との思い出が蘇る事があります。
そんな時に「ああ、そうか。もういないのか」と
楽しいと、幸せだと感じる瞬間を共有できない事がほんのりと寂しくて。
たとえ程度は違っても、誰かから見たら浅はかだったとしても。
いなくなってしまった人への思いはそこに確かにあるのだと思います。
− 学生時代について
楽しかった時もそうでなかった時も含め、
常に教室に漂っていたあの空気はなんだったのでしょう。
誰かがハブられてても、友達がいなくて1人でいる人がいても
黙認されるような空気。
『3月のライオン』という漫画で中学3年のひなちゃんという女の子が
いじめにあってしまうパートがあるのですが、
ひなちゃんがその心境についてポツリポツリと語ります。
「何かクラスの中に見えない階級とかがあって、その階級にあわせて『どのくらい大きな声で笑っていい』とか『教室の中でどれくらい自由に楽しそうにふるまっていい』かが決められているみたいな…(中略)いつどうやって決まるの?誰が決めるの?私たちみんな同じただの中学生のはずなのに」
-『3月のライオン』(著・羽海野チカ/白泉社より)
教室にあった空気の正体は、これでした。
教室の中に見えないルールがあって、誰もそれをおかしいとは言わない。
学校で教えられる社会性とか協調性の一貫にこれが含まれていたのでしょうか?
わからないです、未だに。
「あの空気はおかしくないか?」という疑問符はありつつも、
それを変えたいとかそんな気持ちは実はサラサラないんです。
映画で世界を平和にしようとか、そんな大層なものはなくて。
それはそれ、として、ただそこに在るものを描こうと思いました。
その中で「こういう気持ちを知っている人がいるなら、自分もここにいれるかもしれない」とか。
この世界でただ普通に生きる人が少し息がしやすくなるような。
そんな風に思って頂けるような作品になればと願っています。
だから『左様なら』ではあの時間を、あの空気を、教室ごと描こうと思いました。
でも確かにあの空気はずっとありました。
どんなにいい学校でも、楽しいクラスでもきっと。
そんな息苦しさを抱えながらも私にとってはあの時間が一番輝かしく
代え難い大事な時間だったのだと思います。
だから青春映画が好きなんです。
− 劇的ではない「日常」について
『左様なら』では劇中であまり大きな出来事が起きません。
綾が亡くなる事や由紀と愛美がハブられる事は
本来ドラマとして大々的に描かれるところをあくまで日常の一部として描いています。
学校では常に誰かしらは肩身の狭い思いをしている人がいました。
表向き平和に見える教室のどこかでも悪口が飛び交っていたりとか
ハブられたりだとか、ただどうしようもなく一人である事とか。
それは決して特別な事でなく、あの頃の自分にとってただそこに在る「日常」でした。
学校だけではなく社会に出てもなお毎日考えたくない事ばかりで
きっと多くの人が嫌になるほどの日常と毎日向き合って生きています。
だからせめて映画の中では生々しい現実の反芻ではなく、
私たちが生きるこの世界が少しでもいいものに思えるような。
微力ながらそういった素敵な変換が出来ればと思いながら作品を撮っています。
− 夢のような現実について
学生時代を終えてみると、あの頃の日々は夢だったのではないかという気さえします。
そして過ごしていた当時ですらきっと、どこか嘘みたいで
とても短く、永遠のような時間だったと。
そういった実感のない日々を過ごす由紀や綾、
あの教室にいた全員がそれぞれの物語を生きていて。
そういった空気感を大切にしたいと思っていました。
そしてもう一つ夢のような、現実味のない感覚がありました。
「綾がいなくなった後の世界」を生きる由紀たちの日常です。
どこか嘘みたいで、不意に別の世界に弾き出されてしまったような。
そういったイメージであの教室や、夢の中のシーンを作っていきました。
何の変化もなく過ぎているように見えて、緩やかに均衡は崩れていって。
それでも次の日の朝にはみんなまたあの教室の中にいる。
何もなかったかのように気づかないふりをして、ずっとずっと。
誰もがそうして居場所を守っていたのかもしれません。
− 他人という距離について
私は映画の中の登場人物をあくまで「他人」として描きたいと思っています。
映画で描かれるのはフィクションですが、
それでも他人の事を100%は分からないと思っているからです。
それこそ由紀はずっと飄々としていてきっと
「この子何考えてるんだ?」という印象だと思います。
安西に水をかけた後の「自分でもよく分かりません」という台詞にもあるように
一見感情と行動のリンクが外れているようにも見えますが、
由紀の行動は意外とシンプルに感情と結びついているような気がします。
答えはずっと由紀の中にあったのだと。
そしてこの作品で他人として描こうとした最たるものが綾です。
劇中で描かれる綾はその大半が「他人から見た綾」でしかありません。
結局は死人に口なしで誰も、由紀でさえも本当の綾の事を知らない。
『左様なら』の中で綾の死はあまり重々しくない形で扱われますが、
それはあくまで他人から見た距離感や温度であって。
誰の中にも本当を残せなかった綾にとってはあのキスが全てだったのだと、そう思います。
由紀と綾の言葉にできない同調だとか、
残された由紀が綾みたいになっていく感覚だとか。
それは芋生さんと祷さんの2人でなくては体現し得なかったと心から思います。
− 外の世界と大人について
芋生さんが舞台挨拶で口にしてくれていた事ですが、
学生時代に外の世界に触れるというのはすごく必要な事だったなと改めて感じます。
『左様なら』の中では忍野や滝野、音楽との出会いとして描いていますが
学校の中の世界だけが全てじゃないと、理屈では分かっていても
実感として得ないと分からないものがそこに在ります。
今いる場所が行き止まりではないという事を、
逃げてもいいんだという事を。
そして「大人」はそれだけで外の世界の住人だったなと感じます。
小・中学生の頃に少女漫画で読んだ高校生は大人で、
当時流行っていたドラマの『オレンジデイズ』で見た大学生も大人で、
でも実際に自分がその年齢に追いついてみるとどうもしっくりきませんでした。
大人になれば、こんな風に悩む事なんてないのだろうと思っていた事も
結局似たような事で未だに頭を抱えていたりして。
それこそ大人ぶるのだけ上手くなっていくだけなのかもしれません。
− 「左様なら」について
「さようなら」の語源は「左様ならば仕方ない」という言葉で
《そういう事ならこれでお別れしましょう》という別れを惜しむ言葉のようです。
由紀は綾が亡くなってもなお、
きっともっと綾と一緒にいたかったのだろうなぁと思います。
ただ生きている限り人はどうしようもなく変わり続けます。
現実味のない世界から日常に戻ってきて、あの海で泣いて。
それが綾との本当の意味での別れだったように感じます。
左様ならば、仕方ない。
左様ならば、仕方ない。
いなくなってしまった人をずっと想い続ける事は難しくて
日々は流れ、いつか手を離さなくてはなりません。
手を振り、お別れする時までどうか誰かと寄り添い生きられるようにと願っています。
・・・と、私の自分語りを長々とお見せするばかりで
取り留めのないまま書き綴ってしまいましたが
いま思いつく限りはこんな感じです。
ただこれは私個人の想いであって、これが作品の正解ではないと思います。
一番最初の内容に戻ってしまいますが、受け取る側が自由に感じていいものです。
それでももしまた『左様なら』と出会って頂ける事がございましたら
ちょっとゲームの攻略本読んでもう一度プレイしてみようとか、
それくらいの感覚で参考材料として扱って頂ければと思います。
ここまで読んで下さりありがとうございました。
石橋 夕帆
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