やがて終わりゆく日々について

めちゃくちゃ久しぶりの更新です。

そもそも『左様なら』の事を書くためだけに作ったブログだったので

まさかまた更新するとは、、(気まぐれに消すかもですが)



書きたいのは新作長編についてなんですが、

2018年以降、お仕事や企画物としては短い映像作品を監督していましたが

オリジナルの長編企画は長々考え中でして。


「これは面白いかも!」と思いついて文字に起こしてみても

「…いや、全然だめだわ。」と打ち消し、繰り返し繰り返し。

「あれ?2019年中に考えるつもりだったのにこれもう今年終わるんじゃね?」

と、あっという間に今年の3月になり…。


そうこうしてる間にコロナの影響で4月以降の仕事がなくなり

これはもう割り切って、真剣に企画を考える時間にあてようと。

そうして現在に至る…という感じです。




物語にもなっていない範囲で

もやもやと2月くらいから考えていた事で言うと


例えばどこかで戦争や災害が起きた時。

その時は思いを寄せて心を痛めたとしても

時間とともにテレビのニュースや私たちの記憶からは薄れていって

「そんな事知ったこっちゃない」と世界から置き去りにされるような。

そのやるせなさというか、どうしようもなさ…というか。


これは世間への批判ではなく、自分もそうだったりして。

しかもこれ、「誰かの死」や「学校での不条理」に置き換えると

ほぼ『左様なら』なんですが。(同じような事考えてるなぁ…)


「災害」「戦争」と言ってしまうと手に負えない事のように感じるけど

そこに居るのは私たちと変わらない一人の人間であり、友人や恋人や家族なのだから。

自分なりに一度ちゃんと、そういう感情と向き合ってみたいなぁと思って。




あとはちょっと気持ち悪い事語っちゃいますが、

世界はいつか終わるんだろうなぁって割と小さい頃から思ってて。

それが自分の世代か、何世代先かは分からないけど

今みたいな人間の文明社会は終わるんじゃないかって。

(たぶん手塚治虫先生とかの漫画の影響)


いつか世界は終わってしまうのに

どうして目先の繁栄にばかりに執着してるんだろう。

何でこんなにビルが建って、同じような街がたくさんできて。

あらゆるものを生み出しては廃棄して、使い果たしていくんだろうって。




世界がどこへ向かっていこうとも

あるいは世界から忘れ去られたとしても

それでも私たちは生きていく、という事。


観る側の捉え方次第ではあるけど、

個人的な意識としては今後テーマものを撮るつもりはなくて。

『この世界の片隅に』や『パラサイト』のように、

ただそういった場所で生きている人として描けたらいいなぁと思います。




相当まとまりのない文章になってしまいましたが、

ちょっと思考を整理できたような気がします。

気持ち悪いぼやきにここまでお付き合い頂きありがとうございました。



新作に関しては絶賛考え中でして、こんなアンケートを設置してます。

https://tayori.com/feedback/9a8456b80d1b37f42bccd40a7b7e1bff2966be26


暇つぶし感覚で構いませんので、

気が向かれたら是非ご回答下さい。




ではでは。





© 2017 by Yuho Ishibashi

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